この日記に触れてくれているサイト

目に付いたところを2つ。簡単に紹介がてら、自分なりのコメントを。

#「くぬぎのしっぽ」
楽天のブログサイトから。くぬさんという人が2004年7月3日の日記に言及してくれている。ありがたいことです。この日記で触れた『プレジデント』の記事(人間の絵を描くときに腕を描かない幼稚園児がたくさん現れてきているというもの)に僕以外にも驚く人がいて、少し安心した(笑)。
この事実が何に起因するのか正確なことは分からない。だが、今はもしかすると次のような可能性があるかもしれないと考えている。
絵を描くというのは文化的な行為であり、つまりはどのような描き方を学習するのかに大きく寄っている。だとするならば、腕が描かれていない絵ばかりを見ているために腕を描かない、という可能性は考えられないだろうか。例えば、最近の子供たちがよく見ている漫画やアニメが何なのかはよく知らないのだが、「クレヨンしんちゃん」にしろ「ポケモン」にしろ、顔のみが極端にデフォルメされており、首から下のパーツにはあまり配慮されていない。
誤解のないように強調しておきたいが、これはアニメがダメという話ではない。絵を描くという行為が可能になるためには、描く行為に先行して「絵というものがどのようなものなのか」ということを知る鑑賞体験が必要になる。現在の子供たちにとっての絵の鑑賞体験はアニメぐらいしかなく、そのアニメにおいては顔のみが極端にデフォルメされているために、子供たち自らが絵を描くときにどうしても顔以外の部分の描き方が分からなくなっている。それだけの話かもしれない。
僕らは子供が描いた絵において、腕が描かれていないと衝撃を受ける。だが、それは僕らがそのような絵を見なれていないからにほかならない。腕さえ描かれていれば、腕の関節の位置がちゃんと描かれていなかったり、関節が変な曲がり方をして描かれていてもあまり気にしないのではないだろうか。「最近の子供たちの絵において、関節の描き方がおかしい!?」などとは問題にならないのではないか。それは僕らが自分たちの絵画体験において、関節なんてものがあまり重視されていなかったからにほかならない。ならば、最近の子供たちの絵において腕が描かれていないという事実は社会的問題というよりも、子供たちにどのような絵を描かせるのかという文化教育的な問題だ。「関節までは描かなくてもよいが、腕ぐらいは描かないとおかしい」という絵画的価値観を教えるということをどのように考えるべきだろうか。

#「うららか・びより」

つじあやのファンによるはてな日記。すごくマメに更新されていてすごい。ただ誠に申し訳ないのだが、つじあやのは聴いたことないのでどのような音楽なのか分からない…。
ここではフジロック関連として、2004年7月12日の日記を紹介してくれている。ありがたし。確かにありがたくはあるのだけれど、自分で言うのもなんだが、この日の日記はフジロックについての情報量ゼロで、我ながら申し訳なく思うんすけど(笑)。