私のわがままの音ではない。私の泣き声であり、悲鳴である!?
これはネタになるだろうなと思って探して見れば、あるある、案の定すごいことになっている(笑)。特にフラッシュは必見。強烈な印象が頭に残って離れない…。
http://blog.livedoor.jp/higeoyaji/hiphopshit/
監修・高田渡 / 獏 詩人・山之口獏をうたう
放浪詩人、山之口獏の詩を、高田渡を中心に様々なミュージシャンが演奏する。参加ミュージシャンは、高田以外では、大工哲弘、佐渡山豊、石垣勝治、嘉手苅林次、つれれこ社中、大島保克&オルケスタ・ボレ、ふちがみとふなと、渋谷毅、内田勘太郎、ローリー、関島岳郎、中尾勘二、桜沢有理。
高田渡について書くにはこのアルバムは相応しくないかもしれない。どうしても山之口獏について語りたくなってしまうのだから。
だが、高田渡の歌声で僕が最初に思い出すのはこのアルバムなのだ。特にこのアルバム収録の1分に満たない短い弾き語り曲「夜景」。
あの浮浪人の寝様ときたら
まるで地球に抱きついているかのようだとおもったら
僕の足首が痛み出した
みると地球がぶらさがっている
詩はこれがすべてだ。ちょっとした酔っ払いの幻想? だが、高田渡のほとんど朗読に近い歌声はあくまでもしらふだ。ただし、彼の口から吐き出される声には眠りが侵食してきているかのようで、こもったような息づかいが聴こえてくる。結局のところ、眠っているのは「浮浪人」ではなく、「僕」の方ではないのだろうか? あるいは、「浮浪人」と「僕」は同一人物なのではないだろうか?
この歌を聴くたびにこうしたことを考えていたのだが、もちろんこのような問いなどいつまでも結論はではしない。
いまや高田渡は永久の眠りについた。その姿は地球に抱きついているような寝様だったのに違いない。