ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『バンドネオン』@新宿文化センター

80年代のピナ・バウシュ作品を初めて見た。1980年の作品『バンドネオン』。1976年の『七つの大罪/怖がらないで』を除けば、90年代以降の作品ばかりを見ていたため、大きな期待を抱いて出かけてきたのだが、予想を上回るほど素晴らしかった。
確かにこの作品はダンス公演らしくはないかもしれない。90年以降の作品群と比べると明らかだが、ダンサーたちは通常の意味での踊るという行為を禁じられている。男たちはスーツの上着を脱いだり、着たりを繰り返す。女装が得意な(?)ドミニク・メルシーは今回はみっともなくはだけたチュチュ姿でバレエの単調なバーレッスンを終わりなく繰り返したすえにゆっくりと倒れこみ、胎児のように丸まってしまう*12004年7月10日の日記で触れたインドネシアのディッタ・ミランダ・ヤジフィもせっかくの運動能力は封印され、ソロのシーンはネズミを撫でたり、歌を歌ったりしているくらいのものだ。
では、踊りを禁じられたダンス作品に一体なにがあるのか? これを言葉にするのは難しい。ただ、見ていて居心地が悪くて仕方がないにも関わらず、目は舞台に釘付けになってしまうのだ。
例えば、次のようなシークエンス。男性ダンサーが女性ダンサーの股から背中に片手をまわして女性を抱え上げる。女性は人形のように生気がなく、背中を伸ばしたまま手足をぶらんとさせている。この女性の身体が何とも言えず気持ちが悪い。男性の片手の上にのっているという不自然さと相まって、人形でなければ死体であるかのようだ。そして、女性の身体にゆっくりと生気/欲望がやどり、男性の体に足を絡ませていき、腕も首に絡みつけ、ぎゅっとしがみついていく…。こうした一連の動きが男女ペアによって一組ずつ次々と繰り返されていく。確かにエロティックな動きではある。だが、欲望が身体に宿ってすら、身体の中には死が同時に宿っているという事実によって、何とも言えず不気味で居心地の悪い感覚が生み出される。
あるいは、女性ダンサーがひとり暗いステージ上に仰向けに寝転がり、悲痛な叫び声を上げつづけるシークエンスも強烈だ。この叫びは瀬山亜津咲ほか何人かによって上演中に何度も反復されるのだが、ある時は泣き叫ぶ女性を周りの椅子に座った他のダンサーたちがただずっと見つめ続けている。またある時は泣き叫ぶ女性の声だけが聴こえるものの、他のダンサーたちはまったく気にする様子もなく、一人の女性ダンサーに対してひたすらアプローズを反復している。あるいは……。この不気味さを言語化するならば、次のように言うことができる。仰向けに寝転がって叫び声を上げる女性は足を少し開いたまま体を痙攣させており、おそらくは出産の苦痛による叫び声を上げている。人は暗闇のなかで他者のまなざしのなかへと産み落とされる。そして、人生絶頂のアプローズのなかにあってすら、母の分娩の苦しみの叫び声が無意識のなかに響き続けている*2
このように考えてくると、『バンドネオン』を見て感じる居心地の悪さは、生そのものの居心地の悪さなのだと言えるかもしれない。根源的な叫び声や身体を貫く生/死によって、僕らは分裂を抱えたまま存在している。居心地の悪い空間のなかにぽつんと投げ出され、意識しないままに身体を動かしながら生きている。だが、ピナはその身体の動きを注視し、僕らの身体の動きのなかに根源的な分裂の痕跡が刻み込まれていることを明らかにしてしまう。僕らの生の条件としての身体的無意識の提示。非常に充実した見事な作品。

*1:他のダンサーたちの背後で、彼らとは異なる時空にいるかのように、周りとは無関係にドミニクはただ一人ゆっくりと服を脱いでパンツ一丁になり、チュチュを着ていくのだが、そのよれよれのブリーフ姿がまた情けない(笑)

*2:実際、このシークエンスを見ていると、仰向けに寝転がり痙攣する身体と、絶頂のアプローズのなか恥ずかしそうにお辞儀する動きが重なって見えくる、動きの類縁性がさほどあるわけではないにもかかわらず。僕らのひとつひとつの動きはレイヤー構造になっており、何気ない身振りのなかに他者の動きが入り込んでいる。