ジョン・ダウアー監督『リヴ・フォーエヴァー』(英/2002年)

ブリットポップドキュメンタリー映画とは言え、ブリットポップ当事者としての主要登場人物はノエル・ギャラガー(オアシス)、リアム・ギャラガー(オアシス)、デーモン・アルバーン(ブラー)、ジャーヴィス・コッカー(パルプ)、3D(マッシヴ・アタック)ぐらいであり、まぁ、確かに偏ってはいる。
だが、このゴミのような映画(それ以外の何物でもない)においておもしろいところがあるとすれば、やはりギャラガー兄弟の存在に尽きると言ってよい。他の登場人物たちが内省的に過去を振り返りつつ語ってみせる一方で、ギャラガー兄弟の"俺様ぶり"は突出しており、非常に笑える。結局のところ、彼らが出ていれば、登場人物の偏りなどはどうでもよいのではないだろうか。僕らはきっとこういう頭抜けたバカをこそ見ていたいと思っているのだ。
ブリットポップにおいてオアシスが勝利したのだとすれば、それはこの兄弟の異星人のようなキャラクターに多くを負っているのだと思う。カルチャーとは要するに、新しい差異を見つけ出し、それを消費することにある(これがシニカルに過ぎる見解であることは承知している)。この映画が主張するように、「ブリットポップとは、保守党政権末期の時期において、労働党政権樹立の流れと連動して登場してきた反アメリカンカルチャーとしてのUKロックの伝統への復古運動だった」とするならば、オアシスの成功要因は、カート・コバーンの自殺とともにUSのグランジが失速した後、UKが自らの内側に労働者階級という差異を"新たに"見つけなおすことによって「大英帝国のプライド」を再構築しなおしたことにあるのではないか。
もちろんUKロックが労働者階級の音楽である以上、いくら中産階級的保守党政権から労働者の党への政権交代の時期だったとは言え、労働者階級という存在だけではもはやインパクトのある差異たり得たりはしない。あくまでも、そこに労働者階級に出自を持つギャラガー兄弟の驚異的な天上天下唯我独尊ぶりが加わっていたからこそ、オアシスは労働者階級を訳の分からない圧倒的な差異として突出させ、労働者の音楽としてのロックにおける勝利者となれたのではないだろうか。
事実、彼らの何物にも貢献しない不毛なまでの過剰さは、彼らの音楽の最大の魅力だ。そして、それは一定のポジティブな影響を及ぼしてもいる。ロックがその不毛なまでの騒音(=過剰さ)を逆説的な魅力として抱えている以上、ギャラガー兄弟の過剰さはロックの核心に触れていたとさえ言える。
話がとっ散らかってきた。おそらく上述の文章は混乱していると思うが、細かく整理しなおすのも面倒なので簡単にまとめてみる。要するに、保守党の長期政権に人々が飽き飽きし、労働党政権が取って代わろうとする"希望"の時代において、ギャラガー兄弟の過剰さが労働者階級の過剰さとして、そしてロックの過剰さとして体現しえていたというようなことを言いたかったのだ。もちろん彼らの音楽が、それ自体として、本当のところどれだけ過剰なものでありえたのかについては、かなり心もとなくはあるのだけれど(笑)。だが、オアシスは、この程度の重要性は有しているバンドではあり、そんなに馬鹿にしたものではないのだ。というようなことを、映画を見てからつらつらと考えてみた。