訳の分からない日本語の力

町田康+The Glory / どうにかなる
久しぶりにブログを書くため、前回のものを読み返したらROSSOについて書かれていた(と、自分で言っているのもおかしいが)。聴覚と視覚の混乱について書いてあったが、それを読み返して思い出したのが町田康+The Gloryの『どうにかなる』というアルバムだ。このアルバムは大好きで、一時は非常によく聴いていた。町田康独特の素人文学的な感性(誤解のないように付け加えるが、褒めているのだ)が結実している。例えば、一曲目の「倖いラッキー」の歌詞はこんな感じだ。

すべてとすべてとすべてを剥奪されてわたしはラッキー
すべてとすべてとすべてを略奪されてわたしはラッキー
エロスたちと女たちとゴージャスなホテル
ホテルのロビーで猥褻な会議

重いギターサウンドに重ねられた町田の熱い熱唱で「すべてとすべてとすべてを剥奪されて」と歌われると、情念に満ちた重い歌かと思うのだが、続けて語られるのは「わたしはラッキー」という(若者的な?)軽い歌詞。同様に、「エロスたちと女たちとゴージャスなホテル」と歌われるとエロティックな話なのかと思うのだが、続くのは「ホテルのロビーで猥褻な会議」(笑)。「ホテルのロビーで猥褻な会議」って何だ!?
あるいは、何度も繰り返される「倖いラッキー倖いルッキーラッキールッキーラッキー」。「倖い」という宗教的な言葉に続く「ラッキー」という軽い言葉。更には「ルッキー」というふざけた言葉。Luckyを「ルッキー」とふざけて言った経験は誰にでもあると思うが、子供が気に入った言葉を何度も何度も口にして遊んでいるかのようだ。そして、これらすべてが大真面目に熱唱されるのだ。
「やめろ」という歌では、「駐車場でひとを殴るのはやめろ」という歌詞が登場する。だが、これぐらいならあるいは暴力の告発だと思えなくもない。だが、続けて「駐車場でひとを呪うのはやめろ 駐車場でひとを殺すのはやめろ 駐車場でひとを裁くのをやめろ」と歌われると、各行為ではなく、「駐車場」という場所が突出してくるため、あたかもそれらの行為を「駐車場」でやることが悪いかのように聴こえてきる。何なんだ、これは。
あるいは、「悔い改め」という宗教的なタイトルの歌では、なんとモーゼについて歌われる。だが、「モーゼあんたは髪をなびかせて、カメラの前で完璧な演技」と歌い始められると、やはり訳が分からない(笑)。「モーゼ、モーゼ、モーゼ、いい加減にその厚化粧はやめろ」に至っては、言わずもがなだ。(ところで、「翔は飲み、洋子とホイだ」という、適当さを装いつつも聴いている限りでは「昭和の御世を寿いだ」としか聴こえないという、いかにも思わせぶりでトリッキーな歌詞については、評価は分かれるところだ)
つまり、真面目と不真面目、宗教的なものと世俗的なもの、重いものと軽いもの、あるいは触れている余裕はないがほかにも、標準語のイントネーションと関西弁のイントネーション、歌と朗読、オリジナルと引用などが歌のうえに同居し、齟齬を生じさせている。だが、とっちらかった印象が希薄なのは、すべてが大真面目な熱唱で歌われることで、統一感が生み出されているからだ。そして、聴者は混乱した歌のなかに巻き込まれる。町田の最大のおもしろさはここにある。例えば、「因果応報」という歌はこんな歌詞だ。

闇のなかでおまえとふたり
食べ物を盗もうと 不安定な位置で手探りを繰り返した
不安定な位置で
だから 飯がこぼれ 私達は激怒した
わたしたちは泥棒なんだ わたしたちは叫べない
わたしたちは飯まみれ わたしたちは怒れない
だから 心の奥に怒りを閉じ込めて
カーブを曲がろう スピードをあげて

恐るべきことに軽やかなサンバのリズムに合わせて歌われる不可解なシチュエーション。確かに暗闇のなかの飯泥棒なら、飯がこぼれても叫べないだろうし、怒れないかもしれない(笑)。だが、歌を聴いていると、闇のなか、不安定な位置で、食べ物を盗もうと手探りを繰り返しているこの妙な泥棒になぜか転移している自分がいるのだ。悲劇的で喜劇的な自分の状況に怒り、そして怒りを閉じ込めつつスピードをあげている…
町田は確信犯だ。おそらくこの手の言葉へのフェティッシュなこだわりを、一種の知的な遊びとして楽しんでいるのだと思う。だが、響き渡るギターのロックな響きと、町田の熱唱によって、その歌詞が単なる軽やかでポップな遊びとしては聴こえず、奇妙な不具合が残り続け、結果として聴取における感覚の混乱が生じてしまう。
我ながらまとまりのない文章だとは思うが、とりあえずそういうこと。