バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ@サントリーホール 2005/02/20/Sun.

 
 ベートーヴェン: ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 op.19
 マーラー: 交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」
 
 結論から言えば、非常にすばらしかった。わざわざ東京まで見に行った甲斐があったというもの。ベートーヴェンのこの曲は「軽音楽的」と言うか、かなりシンプルで聴きやすい曲なのだが、管弦楽による導入に続いて、バレンボイムによる清流のせせらぎのようなきらめくピアノが流れ始めるところなどは思わず息を呑んだ。そして、すべての楽器の音色がうねるように流れていく。もちろんミスタッチのように聴こえるところがなかったわけではないが、まったく気にならない。そもそも川の流れは岩や木が邪魔をしたり、大きく蛇行したりしながら流れていくものだ。
 そう言えば、バレンボイムはサイードとの感動的な対談集『バレンボイム / サイード 音楽と社会』(みすず書房)のなかでフルトヴェングラーに触れながら次のように語っていることを思い出した。「フルトヴェングラーは音楽を哲学的に理解していた。彼の理解では、音楽というのはなにかの表明ではないし、存在でもない。それは生成なのだ。音楽はなにか重要な一節を表明するものではない。そうではなくて、どのようにしてそこに至るのか、どのようにそこを去るのか、どのように次の段階へ移行するのか、そういうものなんだ」。要するに、音楽とは流れそのものであり、それ以外の何ものでもないということ。今回の公演を聴くことで、そのことを何よりも実感できた。この本をもう一度、読み返してみようかな。
 その意味では、マーラー交響曲第7番はベートーヴェン以上にすばらしかった。例えば各楽章の最初の1音と最後の1音の美しさは非常に印象的だ。流れの始まりと終わり。この間にある流れこそが音楽のすべてであり、そうであるからこそとりわけ始まりと終わりの美しさが際立っているということなのだろうか。
 今回の来日公演ではバレンボイムのピアノ公演は名古屋でもあったのだが、ベルリン・シュターツカペレの演奏が聴きたかったためにそちらは泣く泣く諦めて、東京だけに絞った。今となっては両方とも聴いておけばよかったと思わなくもないのだが、いやそれどころかベルリン・シュターツカペレによる別のプログラムさえも聴いておきたかったと思うのだが、少なくとも大満足の演奏だった。しかし、椎間板ヘルニアに苦しんでいるらしいバレンボイムのピアノ公演はやはり聴いておくべきだった。バレンボイムも既に62歳。少なくともピアノ公演での来日はもうないかもしれない…。
 ところで、公演パンフレットを見ていたら、バレンボイム率いるベルリン・シュターツカペレの例の事件、すなわち2001年7月7日にイスラエルエルサレムにおける公演のアンコールで突然ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の一部を演奏*1し、大きく物議を醸した件(イスラエルにおいてワーグナーはタブーだ)についてはまったく触れられていなかったのだが、これはおそらく意図的なものであるような気がする。ベルリン・シュターツカペレの解説頁では年度別に代表的演奏が解説されているのだが、あれだけ大きな話題となったこの事件についての記述が抜けているのだ。どういう意図なのだろうか?
 ちなみに上述の『バレンボイム/サイード 音楽と社会』においては、この事件に対するサイードの注目すべきエッセイも収録されているのだが、このエッセイに触れる余裕は今日はもうない。もういっぱいいっぱい(笑)。
 

バレンボイム/サイード 音楽と社会

バレンボイム/サイード 音楽と社会

 

*1:「突然」とは言っても、それはバレンボイムのこと。アンコールの時に聴衆に向かって「ワーグナーをやりたいと思うが」と意見を求め、議論を交わした上で、「自分は演奏しようと思うが、不快に思う人は退席して構わない」と述べた上で演奏が行われている。