アラ・グゼリミアン編『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みすず書房)

 結局、再読してしまった。しかし、この本はパラパラと読める割には難しく、容易には理解しがたい部分が多い。だが、次のようなバレンボイムの発言を読めば、前回の公演(2005年2月20日の日記を参照)の記憶と見事にリンクする。

 まずはじめにくるのが、沈黙の問題だ。音を持続させたいのならば、そして持続的な音から生じる緊張を創出したいのであれば、関係のはじまりの瞬間は、第一の音とそれ以前にあった沈黙のあいだのものだ。次に来るのが、第一の音と次の音とのあいだの関係だ。そうして、これが無限に続いていく。これを達成するために、自然の法則を拒絶することになる。音が消えていくという、ほうっておけばそうなることを許さないのだから。そういうわけで、演奏においては、その音楽を知り、それを理解するということとは別に、音楽化がまっさきに理解しなければならない重要なことは、音をこの世界に出現させたとき、この部屋に出現させたときに、それがどのように作動するかということだ。つまり、音の反響はどんなだろう、音の持続性はどんなだろう、というようなことだ。

 あるいは、上記発言に先行してサイードは次のように言っている。

 音楽家に与えられているのは、演奏が終わって沈黙が戻ったときの、あの喪失感だけだ。それで思い出すのは、ベートーヴェンの中期作品のいくつかが、たとえば交響曲第五番とか、『フィデリオ』の終わりの部分などのように、曲の終わりになにかを主張しようとして、一種のヒステリー状態になるということだ。ハ長調が延々とくり返されるように響きわたるように、終りがくることに対し、それに先んじ、それを遅延し、回避しようとする試みなのだ。

 沈黙に逆らって音を発するということ。沈黙と最初の一音の関係、そして次の音との、さらに次の音との、またその先に…。これらシンタグマティックな音のつながりの先にやがて訪れる自らの終りそのものに対しても、音は自らの宿命として遅延させよう試み続けている。だからこそ、あのコンサートのように最初と最後の音があれほどに印象的に響いていたのではないだろうか。
 この本もベートーベンやワーグナーのいくつかの作品をじっくりと聴き返してみてから、再度、読み返してみよう。また、いまの勢いでサイードの『音楽のエラボレーション』も再読しようかどうか思案して、こちらも少し後に伸ばすことを決定。『バレンボイム自伝』を買ってきて読もうかどうかも思案中。これは読んでしまうかも。