スクールカーストについて

 最近、少し話題になっているようだが、「スクールカースト」なる概念があるらしい。はてなキーワードの「スクールカースト」がポイントをうまく整理しているので、概要を把握できる。
 ただし、この概念そのものは決して小気味よいものだとは言えない。この言葉の成立過程は知らないが、何か新たな認識を付け加えたとは言えないのではないか。学校に限らず、どのような集団においても、それが人間の集団である限りは差別的な構造があるということぐらいは皆知っている。それを「カースト」という強烈な言葉で置き換えただけだ。
 もちろん、学校内に「カースト制度」がある、要するにモテル人とモテナイ人がいるという「事実」を、強烈な言葉で言語化することによって、注目を集めるという意味ではそれなりに効果があったのかもしれない。
 だが、これは本当に事実なのだろうか。いや、確かに事実は事実であるだろう。しかも当事者たちにとってはかなり深刻な事実であるだろう。だが、本来は、あるいは原理的には、別の事実もありえるような事実にほかならないという点が隠蔽されてしまうのはよろしくないではないか。
 要するに、所詮は学校内という内輪のなかだけの価値観に過ぎないということだ。
 確かに高校生以下の学生にとっては、学校は自分の生活のなかで圧倒的な位置を占めており、そのなかで自分がどういうポジションを占めるのかは重大な問題だというのは決定的な事実だろう。
 さらに言えば、僕は場合によっては、それが社会のなかで必ず直面する問題である以上、自分がどうポジショニングされるのかをめぐって、それなりにコミュニケーション・コストを支払うことは必要なのではないかとさえ実は思っている。
 だがそれでも、そんなことは所詮は内輪の話にすぎないという事実は、それが事実である以上は何度でも強調しておくべきではないか。「スクールカースト」という概念が、内輪のなかだけでしか通用しないはずのものをあたかも絶対的な事実であるかのように固定化してしまう点については、もう少し意識的であるべきではないか。