キャリアデザイン学について思うこと

よくのぞいている労務屋さんのサイトの労働雑感のページに「キャリアデザイン「学」への期待」というエッセイが掲載されていたが、それによれば2003年4月に法政大学にキャリアデザイン学部が新設され、競争率が11.5倍だったらしい。キャリアデザインという概念がそれほど注目されていたとは知らなかった。
労務屋さんのエッセイでは、キャリアデザインという言葉にいかがわしさが存在している理由として、以下の二点を挙げている。
一点目として、キャリアデザインという概念はアメリカ発のものであり、転職がかなり活発な労働市場を前提としているため、日本の実情にあった形になっていないという点。つまり、日本でキャリアと言えば、社内キャリアを意味することが多いが、キャリアデザインという概念には、社内キャリアというものがまだ十分に考慮されていないということ。具体的には、日本企業が社内キャリア形成のために導入している自己申告制度や公募制度、企業内FA制度などの仕組みが十分に視野に入れられていないのではないかということ。
もう一点目は、不況や、それにともなうリストラの進展のなかで、転職を余儀なくされる人が増加している状況において、「キャリアデザイン」を商売道具にして一儲けしようという『人材ビジネス』業者が増殖」している点。具体的には、「『キャリア・コンサルタント』とか『キャリア・アドバイザー』とかいった『資格』(?)を認定、授与する組織、団体」の増加などが挙げている。
これらの指摘にはなるほどと肯くことができるが、この言葉の持ついかがわしさについては読みながら別の理由を考えていた。つまり、キャリアデザインという言葉には、キャリアというものをデザイン可能なものとして想定しているかのようなニュアンスが感じられる。つまり、キャリアデザインという言葉は、キャリアをデザインできる人(できた人)が使う言葉なのではないかと思わせるような、「勝ち組」的性格を有しているのではないか。
もちろん、キャリアデザイン研究者は、そうではなく広く誰にとっても重要な概念として構想していると言うかもしれないが、「誰もが自分のキャリアをデザインすべきだ」という価値観がもしあるとするならば、それはそれで「生涯学習」的な(大きなお世話的な)いかがわしさが付きまとうのではないか。あるいは、主体的にキャリアをデザインしたわけでもない(普通の?)人の生涯や生き方を、キャリアデザインという視点で(学問的に?)切ることに問題はないのだろうか。
というわけで(笑)、いろいろな印象を持ってしまうキャリアデザイン学ではある。労務屋さんとは異なるかもしれないが、その実態の分からない怪しさも含めておもしろそうな学問ではあるので、ちょっとフォローしてみようかな。何も知らずにあれこれ言ってても仕方ないし。発起人に小池和夫や玄田有史などが名を連ねる日本キャリアデザイン学会にも要注目。