イリヤ&エミリア・カバコフ展「私たちの場所はどこ?」@森美術館

イリヤエミリア・カバコフのインスタレーション「私たちの場所はどこ?」は、時代とスケールが異なる3つの展覧会が一つの空間に同居する、かつてない不思議さと驚きに満ちた展覧会です。空間には、金色の額縁に入った古典絵画らしきものとそれを眺める巨人が天井をつきぬけ立ってます。壁にはソ連時代の写真と古いロシアの詩が入ったパネルが展示され、床下には小さなランドスケープが広がっています。それぞれ過去、現在、そして未来(?)を想起させる3つの世界を、観客は想像力を駆使して自由にめぐることになります。

森美術館で配られたチラシより。しかし、このまんまの展覧会であり、誰にでも分かる単純な仕掛けになっている。別にそれならそれでいいとは思う。しかし、で、何?
巨人(会場には巨大な足だけが天上に向けてそびえ立っている)と巨人が見ている絵画(天井付近の壁に絵画の下部だけが見えている)とのスケールの比率は合ってないんじゃないかっていう突っ込みは置いておくとしても*1、巨人たちの足元で現実の僕らが見るソ連時代の写真と古いロシアの詩が入ったパネルはさほど魅力的なものではない。決して悪い写真というわけではない。ソ連時代の人々や風景を捉えたモノクロ写真が叙情的なロシアの古い詩とともに、遺影のような黒い額縁のなかに展示されており、どことなくノスタルジックで、センチメンタルな感情を喚起させるが、それだけと言えばそれだけ。
現実の僕らが見る写真(と詩)の展覧会から受ける感情が、会場にそびえ立つ巨人の足と天井付近に見えている古典風絵画によって演出される巨人の展覧会によって、相対化を試みられようがどうでもいいのだ。あるいは、僕らの足元の床下に小さな海岸のランドスケープが広がり、つまりは僕ら自身が巨人であるかのような形で相対化が図られようがどうでもいいのだ。「カバコフ夫妻が『あらゆるものの相対性』と呼ぶ本展」で相対化しようとするものがささいなものでしかない以上はどうでもいいのだ。はじめに相対化ありきは退屈なものにしかなりはしない。

*1:普通に考えて、膝ぐらいの位置に絵画の下部があるっていうのは低すぎると思う。ただし、これは展示会の会場の壁の高さに左右される問題なのかもしれない。