ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『天地 Tenchi』@彩の国さいたま芸術劇場 2004/07/10

ピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踊団の新作。ピナが継続的に取り組んでいる国際共同制作シリーズ12作目はついに日本が舞台だ。その名も『天地』。舞台美術家のペーター・パプストは今回、鯨を主要モチーフにしている。ステージ上には巨大な鯨の尾ひれや胴体の一部がが突き出しており、あたかもステージが海面であるかのようだ。また、第一部後半から終演までは雪がずっと降り続けている(もちろん紙ふぶき)。それ以外にも…、いやこの手の凡庸な日本趣味をあれこれ数え上げていくことは止めておこう。批判することはたやすいし、逆に日本趣味自体が異化されていると言って評価することさえできなくはないと思う*1。ただ、ひとつだけ言えることは、いずれにせよ今回の作品も近年のピナらしい作品ではあったということだ。
ピナらしい? 実のところそう言ってしまうことにも躊躇を覚える。と言うのも、近年のピナの作品を見るたびに思うのは、ダンサーたちひとりひとりの個性の突出振りだからだ。ここで言う個性とは顔かたちや体格、動きの癖、筋肉や関節の動きなどのことであって、おなじみのダンサーたちの踊りを見ていると、作品ごとの区別はどうでもよくなってくる。つまり、ピナの作品についてよく言われるような「様々な感情や動きのサンプリング」という以上に、個々のダンサーたちの個性(癖)の方が眼前に迫ってくるように見える。要するに、ピナの個性(?)以上にダンサーたちの個性の方が突出して見えるのだ。
特に近年の作品においては、インドネシアのディッタ・ミランダ・ヤジフィの踊りが強く印象に残る。非常に小柄で子供のような彼女(140cmくらいしかないんじゃないだろうか)のダンスは、腰や手首やひじといった身体の関節部分を効果的に活用し、見たこともないような動きを流れるように展開していく。第一部、第二部ともに彼女が冒頭を任されていることには理由があると思う。彼女の踊りによって観客は一瞬にしてまなざしを捕らえられ、タンツテアターの世界に引き込まれてしまうのだ。腰をパッときめたかと思えば、ひじや手首を活かしながら腕や手のひらをパタパタと動かしていく彼女のダンスは圧巻で、いつまでも見ていたいと思う。そもそも、フィナーレにおける、ダンサーたちが次々とダッシュして舞台に登場してひとしきり踊り、またダッシュして立ち去っていくシークエンスにおいても、走り方からしてスプリンターのようであり、彼女の運動能力の高さは明らかだ*2
率直に言えば、今回の作品は過去の作品、例えば昨年の『過去と現在と未来の子どもたちのために』と比べても、クオリティは落ちると思う。しかし、近年のピナの作品においては、そんな相対的な評価はどうでもいい。個々のダンサーたちの圧倒的な存在感の組み合わせのなかからどのようなアウトプットが出てくるのか。今後の展開が気になり、ぜひ次の新作も見てみたいと思う。来年の6月も『ネフュス』の来日公演が予定されている*3

*1:例えば、「キモノ」「フジサン」「ゲイシャ」など"日本的なもの"を列挙していく場面でも、「キモノ、キモノ、カキキキュキュケキョカキョ、キモノ!」などと言葉遊びを展開しながら列挙していくことによって、ナイーブな日本趣味をストレートに表現せず、ギャグにしてしまうことで笑いを取っていく。ただし、率直に言ってギャグのレベルは"オヤジギャグ"以上のものではなく、あれを面白がれる人はかなり無理をしていると思う。そう、ピナの作品のギャグは毎回おもしろくないのだ。ドイツ人はああいうのに爆笑できるのかは気になる(笑)。ただし、吹越満ロボコップ演芸みたいなやつは面白かった。

*2:このフィナーレのシークエンスでは激しい運動が次々と展開されていくにも関わらず、見ていて興奮するというよりも泣けてくる。例えば最後の瀬山亜津咲のダンスも美しい。歌舞伎のようなポーズを取り入れた動きを激しく繰り返していく。徐々に疲れが見えてきて、わずかに動きのキレが悪くなってくる。だが、それにも関わらず激しく踊り続ける。"生の躍動"などでは決してない。限界も含めた身体性の見事な提示。

*3:その前に来週1980年代の作品『バンドネオン』を見るけれど。