ミステリーの楽しさって改めて何だろうかと思う

法月綸太郎『生首に聞いてみろ』(角川書店
思ったほどおもしろくなかった。本格ミステリーが魅力的な謎を描くものだとすれば、そもそも今回の謎はあまり魅力的ではない。しかも、謎を構成する基盤となっているトリックそのものがあんまりと言えばあんまりだった。ミステリーなので詳しくは言わないが、こういう殺人を成立させてしまうことは、やはりご都合主義的にすぎるのではないか。あるいは登場人物のひとりである美術評論家の思わせぶりで空疎な評論のいかにもなリアリティ(笑)はともかく、前衛彫刻家自身の動機も同様。本格好き(たぶん。少なくとも昔はそうだった)としては、「ご都合主義」という言葉はあまり言いたくないのだけれど。もしかすると自分が年を取ったということなのかもしれない。
あるいは、単純に僕は、主人公の名探偵ぶりが希薄だったことに物足りないのかもしれない(いくらなんでも帯の有栖川有栖の言葉「お帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ この事件はあなたにしか解けない」は言い過ぎ)。この作者はもう「快刀乱麻の名推理」などには、さほど興味を持っていないのではないか。名推理に酔うためには「魅力的な謎」がやはり必要だ。「魅力的な謎」が本格の評論における陳腐な紋切り型であるということぐらいは承知しているのだけれども。
この小説において、作者は「謎」で勝負するのではなく、「知性」による勝負へと完全にシフトしてしまっている。要するに、作者が力を注いでいるのは、「どうすればシーガルを超える彫刻を作れるのか」という"芸術的で高尚な試み"に対してにほかならない。だが、「シーガルを超える彫刻」などは彫刻がやればいいのであって、仮にどれだけ見事な芸術論を披露できたとしても、ミステリーとしてのおもしろさとは直接的には無関係であり、魅力的な謎の核にもなりえない。だが、もしかすると作者は本物の芸術批評並みの高度な議論を小説のなかで展開できれば、それが小説の「芸術性」を保証してくれるのだという思いから離れられていないのではないだろうか。
ところで、ミステリ小説の長さを支えるために、登場人物の嘘を多用しすぎる点も引っかかる。登場人物の嘘(しかも場当たり的な)なんて、僕はいちいち読みたくないのだ。小説においてはすべてが言葉である以上、嘘はいくらでもつけるし、後からいくらでもひっくり返せると言う意味では、安易に流れがちな手法だと思う。
どうも久しぶりに本格を読むと、非難めいたことばかり言ってしまっていけない。もちろんミステリーの完成度は高いと思う。だが、読者としては完成度、というか要するに「全体として伏線のツジツマがどれだけ合っているかということ」などにはたいして興味はないのだ。
最後にもうひとつだけ。名古屋市美術館がある白川公園のことを「緑に囲まれた憩いの場として市民に親しまれている」という文章は引っかかる(笑)。まるでお役所の観光案内のように、適当に書き流した内容のない文章である点はおいておくにしても、名古屋在住の目から見ると白川公園はホームレスが暮らしているという印象があって、一般的な意味では「市民に親しまれている」というイメージにはそぐわないと思う。もちろん、ホームレスも市民であるという意味では正しい。だが、まぁこういうズレは仕方ないな。単なるあげ足取りです。