ミシェル・ウェルベック / 闘争領域の拡大 / 角川書店

 これで邦訳3冊目となるウェルベックだが、順番で言えばこの小説が彼の処女作である。なるほど読んでみて、後の作品の傾向がすでに顕著に現れている。もてない男ルサンチマン? いや、ルサンチマンというほどの強い感情でもなく、諦めに近い苦い認識だけがそこにある。
 要するに、フェミニズムや性の解放など、自由が拡大しても良いことなど何もない。経済の自由化が進行すれば貧富の差が拡大し、「持てる者」と「持たざる者」の二極化が進むのと同様、解放の思想が浸透すればするほど「もてる者」と「もてない者」の二極化が進行し、単に闘争領域が拡大しているだけにほかならない。そして、「もてない者」には何一つ希望などありはしない…。そして、ウェルベックが描くのは果敢に女の子にアプローチし無残に敗れ去る者の姿であり、初めから諦めきって希望を失っている者の姿である。
 この作品に漂う気分を団塊の世代以上の人ならば「存在論的不安」と言うかもしれない。だが、「存在論的不安」が理由のない不安であるのに対し、ウェルベックは不安の原因を解放の思想のせいにしている。不安にさいなまれる当人にとってはどちらでも同じかもしれないが、共感はしない。そもそも彼の小説を読んでいると、主人公たちがもてないのは単に自己中心的な性格が災いしているだけのように見えて仕方がない。
 これからウェルベック作品を読もうという人にはやはり『素粒子』(筑摩書房)を薦める。『素粒子』は見事な出来栄えだと思う。描いているテーマは同じなのだが、『闘争領域の拡大』がちっぽけなテーマをちっぽけなままに描いているにすぎないとすれば、『素粒子』はそれをSF的なモチーフとともに壮大なスケールのもとに描きなおすことで文学的な力を生み出すことに成功している。ちなみに現在のところ最新作である『プラットフォーム』は、同じテーマを悲喜劇的状況として描こうとしているのだが(もてない者たちのために売春ツアー事業を立ち上げる話)、描かれるバカげた状況が現実のバカさ加減に拮抗できず、登場人物の認識の深刻さが空回りしているように見える。