カエターノ・ヴェローゾ @愛知県芸術劇場コンサートホール 2005/05/17/Tue.

 なんてすばらしいんだろうか。何度も涙がこぼれ、熱く興奮し、驚き震える。そんなライヴだ。これほどのライヴは一生のうちでそう見れるものではない。心からそう思う。
 例えば、ニルヴァーナの“カム・アズ・ユー・アー”のカバー。ライヴでは昨年のカバーアルバム『異国の香り アメリカン・ソングス』からの曲も何曲か歌われていたのが、率直に言ってアルバムでの“カム・アズ・ユー・アー”のカバーはあまり良い出来だとは思わなかった。原曲のカート・コバーンの強烈な印象をどうしても振り払えうことができず、そのため無理やりなカバーのように僕には聴こえていたのだ。
 だが……ライヴで聴いたこの歌は驚異的だった。僕はこんな曲は知らない。これは何なのか。いまいったい何が起こっているのか。
 もちろん確かに知っている曲ではある。それどころか何百回と聴いているかもしれない。その事実ぐらいはライヴの最中であっても認識している。そして、カエターノ自身も特に奇をてらったことをしているわけではないのだ。だが、確かに知っているにもかかわらず、初めて聴いているかのように聴こえてくる。そして、何度も歌われるMEMORIAという言葉。記憶。「友だちのように、流行のように、古い記憶のように、古い記憶のように、記憶、記憶、記憶…」カエターノは何の前触れもなく突然椅子から立ち上がり、客席のそばまで走って来てはMEMORIAという言葉を繰り返す。僕らの記憶の古層を新たなものとして賦活させる。
 もちろんこんなことはただの一例にすぎない。例えば、カエターノのライヴを見ていると、目の前に歌手がいて、客席に向かって歌っているように聴こえない。彼の声は喉の奥から空気を吐き出しながら歌っているようには聞こえないのだ。彼の声は空間に偏在し、もし神というものがいるのならばその声はこのような声をしているのではないかという錯覚すら持ってしまう。大げさな物言いをしてしまっていることは自覚している。だが、僕らは本当に耳で聴いていたのだろうか。
 カエターノの歌を聴いていると、歌というものがいま目の前ではじめて生まれているような、そんな錯覚さえ何度も覚えてしまう。例えば、ボサノバ風の各曲においては、そのメロディの単調な、ほとんど朗読に近い言葉の連なりのなかから、やはり朗読とは決定的に異なる音楽なるものが立ち現れてくる。あるいは、“ククルクク・パロマ”。ご存知ペドロ・アルモドバル監督の映画『トーク・トゥ・ハー』でも知られた名曲だ。何度もくり返される鳩の鳴き声ククルククー。消え入りそうなほどかすかな歌声でありながら、耳元でささやかれているかのように絶対に誰も聞き逃すはずがない歌声。音楽はもしかすると鳩の鳴き声から生まれたのかもしれない。そして、そのありえない始原がいまここに立ち現れているのではないかという幻覚が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
 まだまだ語り足りないのだが、とりあえずここまで。重症のカエターノ病に侵されていて、とても集中できない。できれば、また後日続きを書きたい。
 ところで、カエターノは良い人にすぎる。腕時計をしていない自分の左腕を指差して、もう時間だとアピールするのだが、客席からあと1曲と請われて、結局2回も延長してしまった。最後の最後は“テハ”。客席にも歌わせるので、これから行く人はさびの部分を憶えてから行ったほうが良い。さびの部分については中原仁のブログの2005年5月16日のエントリを参照。握手も求められるたびに何人にもしてあげていた。