t.A.T.uのPVを見て

 テレビで「オール・アバウト・アス」のPVを見た。ジュリアが男を銃で撃ち殺すシーンが問題となっていたはずだが、思ったほどに話題にならないのは、やはりt.A.T.uにさほどの衝撃がないからだ。その理由はおそらく大きくふたつ。
 ひとつめは、彼女たちの曲そのものが前作の延長線、と言うよりもほとんど同じものでしかないから。ただし、僕は「オール・アバウト・アス」しか聴いていないので、他の曲については知らない。だけど、シングルカットされたのがこれでは…。
 ふたつめは、彼女たちがもはや何ものも代弁してはいないこと。前作の、特に「オール・ザ・シングス・シー・セッド」のドラマチックな曲が女子高生たちの抑圧的な内面を代弁しているかのような幻想を作りえたとすれば、彼女たちも20歳になったということもあるのか、今作では同じテイストの曲でありながらも既にその幻想は纏えていない。あくまでt.A.T.uのふたりの虚構の同性愛的ドラマを空虚に描き出されているだけだ。展開されるPVの物語は、要するにt.A.T.u自身のスキャンダラスさを物語のなかに組み込んで、相変わらず自分たちはスキャンダラスなのだとただ主張している。
 前作は商品として完璧だったが、今作はそこまではいかない。前作が資本の論理に乗っかって見事な作品を作っていたとするならば、今作は資本の論理に置きざりにされないように必死になってすがっていると言えば言いすぎだろうか。結局のところ、彼女たちはマドンナになれそうにない。自らのイメージを巧みに活用する強靭さがなく、ただ消費社会のなかで踊らされている痛々しさが漂う。
 では、t.A.T.uとマドンナの何が最大の違いなのか。おそらく単にマドンナほど賢くないということが最大の違いだ。消費社会を相手にした音とイメージのゲームにおいて、効果的な次の一手を自ら主体的に差し出すことができていないということ。さらに、t.A.T.uが有するイメージがマドンナよりも平板で一面的である点も弱い。単に性的スキャンダルのみであり、その側面を今作のように直線的に過激さを上昇させることだけしかできない。だが、それではダメなのだ。今後、彼女たちをうまくプロデュースできる人間が現れるだろうか*1
 
t.A.T.uの日本サイト
http://www.universal-music.co.jp/u-pop/artist/tatu/
(オール・アバウト・アスのPVも視聴可能)
 

*1:ちなみに彼女たち自身が優れた作品を作りあげ、そのクオリティで生き延びていく可能性もゼロではないだろうが、残念ながらその方向はあまり期待できそうにない