原爆漫画の傑作『夕凪の街 桜の国』

身も蓋もない言い方をするならば、こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社)は原爆漫画の傑作だ。まずはこの端的な事実を認めよう。そうでなければ、作者の大胆な試みの価値を切り下げてしまう。
後書きによれば、作者自身、広島に生まれ育ちつつも、これまで原爆に関するものを遠ざけて、知ろうとしてこなかったらしい。しかし、これは僕も含めて、広島に住む住まないに関わらず、ほとんどの日本人にとっても同様なのではないか。
原爆のおぞましさは、できればそれを知らずにすませたいという心理機制をどうしても働かせてしまう。だが、作者は原爆を描くことを引き受けた。まずはこの事実を認めることから始めよう。そうでなく、例えば、心理描写がどうの恋愛感情がどうのと漫画作品としてのみ評価しようとするならば、それは原爆から、原爆を記憶することから逃避していることになってしまう。
原爆漫画と言えば『はだしのゲン』が有名だが、『はだしのゲン』が原爆の悲惨さを直接的に描いていたのと異なり、『夕凪の街 桜の国』は原爆が人間と社会に残した後遺症を描いている。とりわけ注目すべきなのは現代に生きる僕らに関わる問題として描いている点であり、つまりは記憶の問題を主要なモチーフにしている点だ。
この作品は連作となっており、「夕凪の街」は原爆投下10年後の広島を舞台に、23歳の女性のささやかな恋が描かれる。そして、「桜の国(一)」では80年代後半の東京を舞台に元気な小学生の女の子の日常が、家族に忍び寄る不吉な影とともに描かれ(この女の子の父親が「夕凪の街」の主人公の弟であることも分かってくる)、続く「桜の国(二)」ではその17年後の女の子が不審な行動を取る父親の後をつけて広島へ向かうことになるだろう。
この連作の登場人物たちは自分が被爆しているために、あるいは自分の親が被爆していたために、もしかすると自分もある時、発病するかもしれない。だが、彼女たちはその可能性も認めつつも、自らの生を肯定する。つまりは、原爆の記憶を心身で引き受けながら、生きていこうとする。この難しいテーマが歴史と記憶の複雑な交錯のなかで、未来に向けて見事に描き出されているのだ。描き出すのに使われる具体的な技術や工夫のひとつひとつを指摘していきたい気持ちもそそられるが止めておこう。僕が出会ったなかで今年最高の漫画。
ところで、こうの史代という名前は高野文子から取ったのだろうか? それとも本名なのだろうか? 天才高野文子とは作風が異なるものの、こうの史代も恐るべき力量の持ち主だ。ぜひ他の作品を読んでみたい。