森田童子 / ぼくたちの失敗

 今週末は桜が満開だ。風も吹かずに、白っぽい薄桃色の花がしんと静まり返って咲いている情景は、ときにこの世のものとは思えないほど美しい。死体と結び付けて語る気持ちもよく分かる。だが、桜も名古屋では今日がピークで、明日以降は散り始めていくだろう。
 桜が満開の風景を見ていていつも思い出すのが、森田童子の音楽だ。暗くて申し訳ないが。
 森田童子はよく四季の季節性を背景にした内面性を描き出していく。四季といっても、具体的には秋の印象はほとんどなく、春、夏、冬の印象が強い。しかも彼女にとって季節性はそれ自体、抑圧し鬱屈させるようなものにほかならない。
 息詰まるような夏の暑さは狂気を孕ませ(逆光線)、雪は心中するふたりの共犯者としてすべてを冷たい白さのなかに埋めつくしていく(蒸留反応)。
 だが、もっとも印象的なのは春だ。もちろん森田童子のこと、その春は生命力あふれる希望の春などではない。春のあわい暖かさの、その「あわさ」を、若者の儚さ、危うさと絡め、彼女の歌声の絶妙な不安定さによって描き出していく。例えば、「ぼくたちの失敗」では、「春のこもれ陽の中で 君のやさしさに うもれていたぼくは弱虫だったんだヨネ…」と歌われ、「蒼き夜は」では、「春はまぼろし ふたりは悲しい夢の中 君といっそこのまま だめになってしまおうか…」と歌われる。
 だが、満開の桜を見ていて毎年思い出されるのは、「春爛漫」だ。
 切迫感のある弦楽器の音色で始まるこの曲のクライマックスは、儚くも力強く歌われる「春よ 春に 春は 春の 春は遠く」という繰り返しの部分だ。文法的には意味が取れない言葉の反復が、取り戻せない過去の取り戻せなさを強調する。
 

ぼくたちの失敗

ぼくたちの失敗