中島岳志 / 中村屋のボース

 ラース・ビハーリー・ボースの名前を知っている人は少ない。僕自身も本書を読むまでまったく知らなかった。
 R・B・ボースは20世紀初頭のイギリスの植民地統治下のインドにおいて急進的独立運動の指導者だった。とりわけ彼の名前を有名にしたのが当時のインド総督ハーディング爆殺未遂事件(爆弾を投げたものの彼の殺害にまでは至らなかった。側近は即死)であり、この事件が原因で彼はインドを追われることになる。彼が亡命先として選んだのは、日露戦争に勝利した日本。しかも、彼はスパイ小説さながら、なんとノーベル文学賞受賞者タゴールの親戚だと偽って国を脱出し、日本に入国していたのだ。
 このボースこそ新宿中村屋にインドカリーを伝えた人物に他ならない。当時の日本は日英同盟下にあった。ボースの身元がばれるや否や、イギリスは彼を国外追放するよう日本に圧力をかけ、日本もついには彼に国外退去を命じることになる。その時に彼を救ったのが頭山満を中心とする玄洋社黒龍会系のアジア主義者たちであり、かくまわれた先が新宿中村屋だったのだ。彼は中村屋の娘と結婚し、二人の子供をもうけることになる。だが、彼は匿われているあいだに中村屋にインドカリーを伝えはしたが、料理人ではない。ボースは大川周明内田良平など数多くの国家主義者たちと親交を深め、日本において絶えることなくインド独立のための反英論陣を張り、アジア主義を唱えていくことになるだろう。更には第二次世界大戦下における日本のマレー侵攻に深く関与していく・・・。
 彼がたどった数奇な運命を丹念にたどった本書は非常に読み応えがあり、最後まで飽きさせることがない。要するにめちゃくちゃおもしろいのだ。確かにボースへの思い入れが筆を滑らせているようなところがないわけではない。例えば、彼の内面を安易に代理表象してしまっている点などは、やりすぎだとは思う。だが本書には、ボースがインド独立に固執するあまり日本帝国主義に甘くなってしまった点なども見逃さない誠実さがあるし、何より彼の人生をここまで詳細に描き出しただけで賞賛に値すると思う。良い伝記だ。
 しかし、これはなんという人生なのだろう。インドの独立を願い続けながらも、脱出後二度とインドの地を踏むことのなかった人物の壮絶な一生。
 中村屋のインドカリーは「恋と革命の味」だと言われる。事実、先日たまたま見かけた中村屋の新聞広告(かなにか)でも、ボースの名前とともにはっきりとそう記載されていた。本文最後の「R・B・ボースの叫び声は、現在も新宿の真ん中で、日本各地のスーパーやコンビニエンスストアの棚の中で、密かに発せられ続けている。それは、今日の日本人に対して向けられた『アジアという課題に目をつぶるな!』という叫び声であるように思えてならない」という記述はさすがにいかがかとは思うが、それでも中村屋のインドカリーを食べる時には僕もボースの生涯に思いを馳せてしまうだろう。
 ところで、本書にはほとんど描かれていないが、ボースに対する当時と現在のインド側の評価はどのようなものだったのか気にかかる。異国日本でインド独立のための活動をし続けたボースのことをインドはどのように見ているのだろうか? 日本のマレー侵攻下における彼がマレーのインド人たちからは日本の傀儡とみなされたとの記述が後半にあるが、具体的な評価についてはほとんど欠落している。確かに彼の言論にそれほど思想的価値があるわけではない。日本の帝国主義イデオロギーに取り込まれたのも事実だろう。だが、インド独立の活動家としてはどのように捉えられているのだろうか?
 

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義