沈黙の声――遠藤利克 ビル・ヴィオラ キムスージャ@東京都近代美術館

 こちらも駆け足。他の展示はそっちのけで「沈黙の声」の企画のみ。しかも、目的はビル・ヴィオラの「追憶の五重奏」だ。
 ヴィオラの当作品は何らかの追憶に耽り、悲しむ5人の人物の1分程度の映像が15分に引き伸ばされている無音の映像にほかならない。当初、静止画像かと思ってみていると人物たちは非常にゆっくりと動いている。そのなかで徐々に表情が崩れていき、見ているこちら側もいたたまれなくなるような表情が形成されていく…。
 この作品は無音であるがゆえに、哀しみが一層痛切に伝わってくる、という言い方もできるかもしれないが、僕はそういう意見には組しない。いや、確かに感情移入は容易いだろうし、この作品に涙することは難しくないだろう。だが、これらの引き伸ばされた映像においては、安易に感情移入をするよりも、見ることの限界にこそ直面するべきだ。感情移入を自らに禁じ、画面をひたすら注視していくならば、あれら哀しみの表情の変化が微分化されていくかのようなゆっくりとした時間の持続において、実は安易に感情移入できない不自然な映像が次々と眼前に展開していることに気づくはずだ。普段の僕らが見逃している不自然な、数々の瞬間が。
 このように説明するとこの作品を、僕らが通常なら見過ごすような些細なディテールにまで目が届いた作品、言いかえれば僕らの感覚の貧しさを補うために高速度撮影というテクノロジーを援用した作品だと思う人もいるかもしれない。だが、むしろ自体は逆だ。要するに、ゆっくりと引き伸ばされていようが、結局のところ僕らが多くのものを見過ごしている事実に変わりはない。ほとんど変化が感じられないほどの緩慢な動きであるにもかかわらず、ある人の手がゆっくりと動き出していることに目を取られているうちに、横の人物の表情がいつのまにか悲しみに耐え切れずに崩れている。このような事態が次々と出来するのだ。
 僕らの感覚は徹底的に貧しい。不可避的にさまざまなものを見過ごしてしまっている。その見過ごしているものを捕捉しようと高速度撮影をおこない、ゆっくりと時間を引き伸ばして見直すことで、はじめて見ることができる映像というものが確かに存在する。だが、同時にそれでもやはり、不可避的に様々なものを自分が見逃してしまうという事実にも否応なく気づかざるをえない。いつの間にかすぐそこに出現していた出来事に驚き、そして戸惑う。僕らの視覚はいつもそれの繰り返しだ。